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宮司からのお便り「祭神について」

いつも祇園神社にご参拝いただきありがとうございます。
 
今回は当神社の創始時の祭神にまつわる話をしたいと思います。
 
当祇園神社は、第29代欽明天皇の十六年頃(西暦525年頃)、現在の五ヶ瀬町、高千穂町、旧蘇陽町、旧清和村に跨る九州中央部の「知保郷」圏域に厄病が流行したことから、圏域の中心部に位置する鞍岡の地に、この疫病及び厄難消除の祈願守護神として創始しました。
 
創始時は「祇園社」と称しており、祭神は「曽男神(スサノオノミコトと同一神)」に、茅の輪くぐりで名前が登場します「蘇民将来・巨旦将来」を合祀し、厄難消除の霊験あらたかな神社として地元はもとより遠くからも参拝者がおいでになったようです。
 
また、摂社の「古我牟礼神社」に闇龗神(クラオカミノカミ)を「冠八面大明神」としてお祀りしています。
 
文徳実録によりますと、第五十五代文徳天皇の天安元年(857年)に曽男神に正五位並びに冠八面大明神(闇龗神)に正五位下の神階奉授とされています。正五位は非常に高い位になりますが、この当時は、知保郷圏域ほか近隣には祇園社しか神階奉授がなかったようです。
 
当祇園神社は貞観11年(869年)に京都の八坂神社から素戔嗚大神を勧請しています。
 
「曽男神」を祀っていた祇園社に「素戔嗚大神」を勧請し八坂神社と改称したものですが、改めて同一神である素戔嗚大神を勧請しなければならないほど貞観11年の疫病は猛威をふるったものと推察されます。
 
祇園社としての340年あまり、「素戔嗚大神」を勧請し八坂神社と改称してから1200年あまり、また祇園神社となってから80年あまりの長きに渡って、京都の八坂神社と同様に「祇園さん」として親しまれて今日に至っています。
 
 
当神社が鎮座まします「鞍岡(くらおか)」の地名は、元久2年(1205年)に源平合戦で敗れた那須大八郎が当神社に参拝し、椎葉山に入るに乗馬で入ること困難にして乗鞍を置いたことから「鞍置き村」が「鞍岡」になったという、五ヶ瀬町の昭和の郷土史家が発表した説が通説として一般的になっていますが、実は那須大八郎より320年以上前の天慶7年(877年)に高千穂太郎が高千穂に入って三田井氏を嗣いだ際に「高千穂庄くらおか」の部落名が既に存在していたことが記録に残っています。
 
当神社の伝承によると鞍岡の地名の由来は「クラオカミノカミ」が鎮座する村として広く知れ渡っていたことから「クラオカミノカミの村」が「くらおか村」の名前になったとあります。
 
神社の文献が焼失していますので確認することはできませんが、当神社ではそのように受け継いできているところです。
 
さてこの鞍岡ですが、祇園神社の南西に「冠岳」というフタコブラクダの形をした山があります。
 
この「冠岳」にはヤマタノオロチが7巻半していたという伝説が残っていますが、このヤマタノオロチの魂を鎮めるために「冠八面大明神」として「闇龗神(クラオカミノカミ)」をお祀りしました。
 
この闇龗神(クラオカミノカミ)は高龗神(タカオカミノカミ)と一対の女神様です。
 
龗(オカミ)とは龍神・水神を指します。
 
高龗神(タカオカミノカミ)は山の頂からお守りされている神様、闇龗神(クラオカミノカミ)は谷や瀬をお守りされている神様です。
 
高龗神が白龍、闇龗神が黒龍とも言われています。
 
高龗神(タカオカミノカミ)は宗像三女神のイチキシマヒメと同一神であり、瀬織津姫と同一神あるとする説があり、闇龗神(クラオカミノカミ)は瀬織津姫と同一神であるとする説があります。
 
当神社の境内社である妙見神社は「ミズハノメノカミ」をお祀りしていますが、瀬織津姫と同一神ですので、当神社は龍神様・水神様を複数柱お祀りしている神社ということになります。
 
この瀬織津姫は伊勢の内宮でもお祀りされています通り天照大神の荒魂であり、6月・12月末の大祓式の祝詞に出てくる祓戸の大神です。
 
と言いますか、瀬織津姫の名前はこの大祓祝詞以外に出てくることがないため、謎の神様となっており、たくさんの諸説、推察がなされてきています。
 
また近年、新海誠監督の映画の影響で「瀬織津姫」や「ミズハノメノカミ」が脚光を浴びており、当神社においても創建時に由来する神様として、本殿の素戔嗚大神とともに、多くの方が参拝においでいただく神様となっています。
 
当神社にご参拝の際は、この神様をお祀りしています境内社の「古我牟礼神社」にも是非ご参拝ください。